question
|
choice1
|
choice2
|
choice3
|
choice4
|
answerNo
|
answer
|
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|
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|
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|
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|
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|
string
|
string
|
Assertion
|
Assertion
|
Assertion
|
Assertion
|
Assertion
|
Assertion
|
Assertion
|
1
|
鯖江市の初代市長は誰。
|
間部命雄
|
若泉新一
|
福島文右衛門
|
山本治
|
2
|
若泉新一
|
2
|
鯖江市章は、市制後公募され決定されたが、この時の応募作品はおよそ何点。
|
800点
|
1000点
|
1200点
|
1400点
|
3
|
1200点
|
3
|
鯖江市の面積は。
|
230.75k㎡
|
84.75k㎡
|
72.10k㎡
|
116.99k㎡
|
2
|
84.75k㎡
|
4
|
鯖江市制施行時の人口は。
|
1万人
|
3万人
|
4万人
|
6万人
|
3
|
4万人
|
5
|
證誠寺が、第8世道性上人の時、現在の場所に移転するため誰に願い出たか。
|
柴田勝家
|
間部詮勝
|
朝倉敏景
|
新田義貞
|
3
|
朝倉敏景
|
6
|
市指定文化財「烏ヶ森社叢」にある十の池前の「灯篭」の建設年代は。
|
慶長
|
元禄
|
宝永
|
慶応
|
1
|
慶長
|
7
|
王山古墳群の中で、最も古い墳墓の様式を何というか。
|
支石墓
|
墳丘墓
|
木棺墓
|
石棺墓
|
2
|
墳丘墓
|
8
|
鳥井町の春日神社は、初め大山御板神社といわれていたが、治暦4年(1068)に春日神社に改めた人物は。
|
足利尊氏
|
藤原隆家
|
源頼朝
|
平清盛
|
2
|
藤原隆家
|
9
|
舟津神社境内に歌人の記念碑がある。誰の記念碑か。
|
東溟上人
|
橘曙覧
|
本居宣長
|
松尾芭蕉
|
2
|
橘曙覧
|
10
|
萬慶寺で、天井絵の他に鯖江市文化財に指定されているものは。
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掛け軸
|
石仏
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鐘楼
|
山門
|
4
|
山門
|
11
|
一乗谷の朝倉義景が攻められた時、多くの石仏が焼き払われ谷や川に投げ捨てられた。その後、石仏は北陸道の小川の橋となり、後世、「地蔵橋」といわれたが、越前を攻めた戦国武将は誰。
|
織田信長
|
明智光秀
|
豊臣秀吉
|
結城秀康
|
1
|
織田信長
|
12
|
神明地区鳥羽一帯を開発した福井藩第2代藩主の名前は。
|
結城秀康
|
松平忠直
|
松平忠昌
|
松平昌親
|
2
|
松平忠直
|
13
|
国指定文化財「旧瓜生家住宅」の建築様式は何。
|
神殿造り
|
寄棟造り
|
切妻造り
|
入母屋造り
|
4
|
入母屋造り
|
14
|
間部家の祖、間部詮房が拝領した弁財天が安置されている弁天堂があるのは。
|
杉本町
|
旭町2丁目
|
神明町 2丁目
|
舟津町2丁目
|
2
|
旭町2丁目
|
15
|
鯖江市内における交通信号機設置場所第1号は、現在のどこか。
|
現市民ホール前交差点
|
現商工会議所前交差点
|
現嚮陽会館前交差点
|
現NPOセンター交差点
|
3
|
現嚮陽会館前交差点
|
16
|
昭和33年(1958)、当時の市長が西山公園に私費で植えたツツジは何株ほど。
|
200株
|
800株
|
1500株
|
2500株
|
4
|
2500株
|
17
|
北陸自動車道路鯖江インターチェンジの開設はいつ。
|
昭和50年
|
昭和58年
|
平成元年
|
平成8年
|
2
|
昭和58年
|
18
|
西山動物園を脱走し、一躍有名になったレッサーパンダの名前は。
|
ミーファ
|
ミンファ
|
ミーシャ
|
コテツ
|
2
|
ミンファ
|
19
|
市民ホールつつじがオープンしたのはいつ。
|
平成10年
|
平成15年
|
平成17年
|
平成19年
|
3
|
平成17年
|
20
|
鯖江市民憲章の一節「ふるさと鯖江の祖先たちは(①)の昔から(②)に明日をみつめ豊かな大地のめぐみに感謝しながらたくましく生きてきました」(①)・(②)に入るものとして、その組み合わせが正しいのはどれか。
|
「王山古墳」と「日野の流れ」
|
「兜山古墳」と「日野の流れ」
|
「太古」と「日野の流れ」
|
「縄文・弥生」と「日野の流れ」
|
1
|
「王山古墳」と「日野の流れ」
|
21
|
若泉敬が密使として、沖縄返還のために尽力したときの総理大臣は。
|
佐藤栄作
|
池田隼人
|
吉田茂
|
鳩山一郎
|
1
|
佐藤栄作
|
22
|
越前漆器の沈金分野で「由斎彫」を確立した真保由斎が、師事した和田其水はどこの出身か。
|
山中
|
木曽
|
会津
|
輪島
|
4
|
輪島
|
23
|
父・禿了教とともに日本道徳会を創設し、女子教育に尽力した禿すみの本名は。
|
幸子
|
真子
|
里子
|
愛子
|
2
|
真子
|
24
|
第1回市民文化賞受賞者は誰か。
|
斎藤優
|
真保由太郎
|
大村武士
|
福島徳門
|
1
|
斎藤優
|
25
|
昭和55年(1980)に、日本芸術院賞を受賞した、洋画家の西山真一が発表の場としていた展覧会は
|
二科展
|
帝展
|
国展
|
千寿展
|
2
|
帝展
|
26
|
眼鏡事業創業の一人で、増永五左衛門の従兄弟にあたる人は。
|
大内義隆
|
大久保彦左衛門
|
朝倉松五郎
|
青山彦左衛門
|
4
|
青山彦左衛門
|
27
|
清水此吉が初代校長である神明小学校は、通明小学校とどこが合併してできたか
|
合智小学校
|
烏ケ森小学校
|
水落小学校
|
三六小学校
|
1
|
合智小学校
|
28
|
鯖江藩で藩医として活躍した西島家の墓石があるお寺はどこか。
|
西光寺
|
誠照寺
|
西福寺
|
萬慶寺
|
3
|
西福寺
|
29
|
日本画家で、北中山村第5代村長であった田中孫兵衛の号は。
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東翠
|
西翠
|
南翠
|
北翠
|
3
|
南翠
|
30
|
豊村初代村長の丹尾頼馬が慶応義塾で指導を受けた相手は誰か。
|
浜野定四郎
|
北里柴三郎
|
緒方洪庵
|
福沢諭吉
|
4
|
福沢諭吉
|
31
|
病床にあって死後の献体を申し出たことにより、明治9年(1876)、鯖江で初めて献体が行われた。この人物は誰か。
|
清水九十郎
|
板田孫兵衛
|
青木嘉七
|
瓜生守也
|
2
|
板田孫兵衛
|
32
|
鯖江藩士の家に生まれた矢代操が、仲間と創設した学校は何か。
|
早稲田法律学校
|
中央法律学校
|
慶応法律学校
|
明治法律学校
|
4
|
明治法律学校
|
33
|
福島文右衛門らが創立した鯖浦電気鉄道㈱が、大正15年(1926)に開通させた区間は鯖江とどこの間か。
|
織田
|
佐々生
|
平井
|
梅浦
|
2
|
佐々生
|
34
|
青柳柳塘の実弟の大山陶斎は、鯖江藩を代表する何の学者か。
|
漢学者
|
儒学者
|
国学者
|
医学者
|
1
|
漢学者
|
35
|
第1回県議会議員であった玉木一馬が、昭和23年(1948)に福井大震災で被害を受けた業界再建のために県庁に課を新設するように進言したが、その課名は。
|
めがね課
|
産業課
|
繊維課
|
不死鳥課
|
3
|
繊維課
|
36
|
源平盛衰記にも登場する斎藤実盛は、誰の軍と戦って加賀国篠原で討死したか。
|
源頼朝
|
源義経
|
木曽義仲
|
足利尊氏
|
3
|
木曽義仲
|
37
|
味真野清水頭にあるお寺へ乳母奉公へ出た、のゑ女が、本山の二女児を連れて外出したところ突然に襲ってきた動物は。
|
猪
|
熊
|
犬
|
猿
|
1
|
猪
|
38
|
西大井・川去両地区の農業用水の水不足を解消するために日野川から取水することを考えた西野利兵衛が、江戸に赴いて直訴し、許可を得た将軍の名は。
|
徳川家康
|
徳川吉宗
|
徳川綱吉
|
徳川秀忠
|
4
|
徳川秀忠
|
39
|
明治新政府が近代国家を築いていく新しい担い手を養成するため全国各藩から優秀な人材を選抜し教育する制度で、鯖江藩から唯一人矢代操が選抜された制度は。
|
特待生制度
|
貢進生制度
|
推薦生制度
|
留学生制度
|
2
|
貢進生制度
|
40
|
鯖江市域から選出された最初の衆議院議員である永田定右衛門が中心人物であった政治団体、南越自由党の機関紙名は。
|
南越自由新聞
|
鯖江自由新聞
|
北陸自由新聞
|
越前自由新聞
|
3
|
北陸自由新聞
|
41
|
鯖江藩第4代藩主間部詮茂が間部詮房を祀るために建てた御堂の門で、現在は、松阜神社境内(旭町1丁目)にある市指定文化財の建物の名称は。
|
受福堂御門
|
幸福堂御門
|
福授堂御門
|
御影堂御門
|
1
|
受福堂御門
|
42
|
八幡神社(神明町2丁目)には、本県に類例が少ない、年号が書かれていて、市指定文化財になっている狛犬があるが、その年号は。
|
弘治
|
天文
|
永禄
|
文亀
|
2
|
天文
|
43
|
市指定文化財の「木造阿弥陀如来立像」がある證誠寺(横越町)は、浄土真宗何派の本山か。
|
出雲路派
|
大谷派
|
山元派
|
高田派
|
3
|
山元派
|
44
|
市指定文化財の「中道院文書」は、朝倉時代のもの、織豊期のもの、江戸時代のものとバランスよく残っているが、その文書は全部で何点。
|
8点
|
11点
|
16点
|
21点
|
2
|
11点
|
45
|
市指定文化財の「三六の桜」は、旧歩兵三十六連隊兵営の庭に植えられたものであり、現在は中央中学校の中にある。現在の敷地は、当時、連隊の何があった場所か。
|
宿舎
|
食堂
|
営門
|
体操場
|
4
|
体操場
|
46
|
市指定文化財の「薬師堂古樹林」(下新庄町)は、小山の上に、ケヤキ、ツバキ、イチョウなどが群生しているが、その群落は、何の面影を残しているか。
|
熱帯雨林
|
亜寒帯林
|
温帯林
|
暖帯林
|
4
|
暖帯林
|
47
|
市指定文化財の日吉神社の大杉(上野田町)は、1つの根元から2本の木に分かれているため、何の大杉という名称がついているか。
|
相生
|
二股
|
共生
|
幸福
|
1
|
相生
|
48
|
市指定文化財である舟津神社の樽は神酒などを保存したものであるが、他に類例もなく貴重なものである。その形態は、何の形をしているか。
|
俵
|
ひょうたん
|
とっくり
|
太鼓
|
4
|
太鼓
|
49
|
数学の問題を解答して神社や仏閣に奉納した絵馬のことで、中野神社や石部神社(磯部町)のものが市指定文化財になっているものは。
|
額絵馬
|
家型絵馬
|
算額
|
和額
|
3
|
算額
|
50
|
市内で唯一の三重塔跡(市指定文化財)がある町内は。
|
別所町
|
中野町
|
別司町
|
川島町
|
4
|
川島町
|
51
|
三峯城跡は市指定文化財であるが、ある書物に、南北朝争乱期の延元2年(1337)に築城されたと書かれている。その書物とは。
|
承久記
|
南北朝記
|
太平記
|
越前軍記
|
3
|
太平記
|
52
|
国指定文化財の「春日神社本殿」(鳥井町)は、天正の戦禍後、再建されたと伝えられるが、その時期(年号)は。
|
慶長
|
宝暦
|
文禄
|
寛永
|
1
|
慶長
|
53
|
国登録有形文化財の「加藤吉平商店土蔵」(吉江町)の出入口両側には、ある形の文様を施す腰板がはってある。その文様とは。
|
徳利
|
分銅
|
杯
|
貨幣
|
2
|
分銅
|
54
|
県指定文化財の「舟津神社本殿」は、現存する神社本殿としては、県内最大規模である。その規模からどうよばれているか。
|
三間社流造
|
五間社流造
|
七間社流造
|
九間社流造
|
2
|
五間社流造
|
55
|
市内の古墳群などから出土した出土品は、市指定文化財として、まなべの館に保管されている。その内容・数量からみて、北陸随一のものであるが、その数は何点。
|
650点
|
780点
|
910点
|
1,030点
|
3
|
910点
|
56
|
市指定文化財の専蓮寺(西大井町)にある「鉄釉印花文四耳壺」はどこで焼かれたものか。
|
越前
|
九谷
|
伊万里
|
瀬戸
|
4
|
瀬戸
|
57
|
市指定文化財の大杉がある春慶寺(米岡町)は、松平昌親公が、吉江に分封された後、寺号を春慶寺に改めているが、その前の寺号は。
|
瑞源寺
|
心敬寺
|
心月寺
|
仙光寺
|
2
|
心敬寺
|
58
|
市指定文化財の三峯城跡にある石碑には、南朝方の総大将である新田義貞の弟の名前が刻まれているが、その武将の名は。
|
三山重行
|
新田朝
|
脇屋義助
|
大舘宗氏
|
3
|
脇屋義助
|
59
|
市指定文化財の本山誠照寺鐘楼は、近世後期の特徴を良く示した優れた建物であるが、その特徴は県内でも珍しい組物を備えた切り石積み基壇である。その形とは。
|
四角形型基壇
|
袴腰型基壇
|
円筒型基壇
|
着物型基壇
|
2
|
袴腰型基壇
|
60
|
神明社(水落町4丁目)に、県指定文化財の「板絵著色三十六歌仙図」があるが、三十六歌仙とは、平安時代中期に、誰が選んだ代表的歌人のことか。
|
藤原公任
|
柿本人麻呂
|
大伴家持
|
山部赤人
|
1
|
藤原公任
|
61
|
近松門左衛門が描いた浄瑠璃作品の中で、現世町人の社会的な悲劇を3段の簡素な形式と流麗な文章で綴ったものを何というか。
|
現代物
|
世話物
|
時代物
|
歴史物
|
2
|
世話物
|
62
|
近松門左衛門は、享保9年(1724)に大坂天満で没したが、近松が葬られているお寺は、広済寺とどこ。
|
大通寺
|
来迎寺
|
三津寺
|
法妙寺
|
4
|
法妙寺
|
63
|
近松が初めて作者名“近松門左衛門”と署名した作品名は。
|
嫗山姥
|
佐々木大鑑
|
心中天の網島
|
世継曽我
|
2
|
佐々木大鑑
|
64
|
近松の歌舞伎作品の中でも最高傑作のひとつで、三国の遊郭が舞台となった『けいせい仏の原』に登場する越前の大名の名は。
|
松平春獄
|
柴田勝家
|
梅永刑部
|
結城秀康
|
3
|
梅永刑部
|
65
|
近松が仮住まいをしたといわれている春慶寺の創建は何時代といわれているか。
|
奈良時代
|
平安時代
|
室町時代
|
江戸時代
|
1
|
奈良時代
|
66
|
近松は享保9年(1724)、71歳で亡くなっているが、その年に上演された作品は。
|
傾城金龍橋
|
関八州繋馬
|
卯月紅葉
|
平家女護島
|
2
|
関八州繋馬
|
67
|
10年余りを吉江で過ごした後、近松は公家の家に仕え、浄瑠璃作家の修行を始めるが、その間に出会った浄瑠璃の語りは誰。
|
竹本義太夫
|
宇治嘉太夫
|
植村文楽軒
|
竹本筑後掾
|
2
|
宇治嘉太夫
|
68
|
近松の浄瑠璃作品で、当代の好みにあって3年越し17ヶ月興行した傑作は。
|
曽根崎心中
|
冥途の飛脚
|
国性爺合戦
|
女殺油地獄
|
3
|
国性爺合戦
|
69
|
近松の母は、福井藩に勤める医師・岡本為竹の娘との説があるが、その母の名前は。
|
お初
|
お吉
|
喜里
|
喜久
|
3
|
喜里
|
70
|
吉江藩は正保2年(1645)に成立したが、その時の藩主松平昌親の兄で福井藩主だった人物は誰。
|
松平光通
|
松平昌勝
|
松平忠昌
|
松平昌明
|
1
|
松平光通
|
71
|
鯖江人形浄瑠璃「近松座」の発足当時の名称は。
|
文楽座
|
竹本座
|
たちまち座
|
松竹座
|
3
|
たちまち座
|
72
|
火災時に避難所となった寺の男に会いたいばかりに放火し、火刑に処された八百屋お七で有名な井原西鶴の作品は。
|
日本永代蔵
|
世間胸算用
|
好色一代男
|
好色五人女
|
4
|
好色五人女
|
73
|
鯖江人形浄瑠璃「近松座」の演目で、五穀豊穣、子孫繁栄を願って演じられる賑やかな演目は。
|
酒飲童子枕詞
|
福寿海
|
豊年秋の田
|
寿式三番叟
|
4
|
寿式三番叟
|
74
|
吉江藩館跡は、通称近松橋とよばれている橋の北にある。その橋の名称は。
|
天神橋
|
吉江橋
|
弁天橋
|
米岡橋
|
3
|
弁天橋
|
75
|
鯖江藩の中心部は、北陸道に面した浄土真宗誠照寺の門前町にあったが、家数十数軒の茶屋町に過ぎなかった。この町並みを何というか。
|
間の宿
|
寺の宿
|
道の宿
|
民の宿
|
1
|
間の宿
|
76
|
鯖江藩初代藩主間部詮言は、誰の5男として生まれたか。
|
間部詮良
|
松平忠禎
|
菅沼定長
|
西田清貞
|
4
|
西田清貞
|
77
|
鯖江藩第6代藩主間部詮允が、先代の遺志を継ぎ、江戸藩邸に創設したものは。
|
受福堂
|
儒学堂
|
惜陰堂
|
薬師堂
|
3
|
惜陰堂
|
78
|
詮勝の正室である簾子の父で、石見浜田65,000石の大名は。
|
松平昌明
|
松平昌方
|
松平昌邦
|
松平康任
|
4
|
松平康任
|
79
|
鯖江藩第8代藩主間部詮実は、幼少から読書を好み、詩・書画をたしなみ、武芸に励んだが、詮実が各種文献を筆まめに筆写しまとめた絵入りの随筆集は。
|
慶長見聞集
|
配所残筆
|
待月亭漫筆
|
折たく柴の記
|
3
|
待月亭漫筆
|
80
|
鯖江藩最後の藩主の就任直後から出兵した戦争は。
|
西南戦争
|
佐賀の乱
|
第2次長州征討
|
戊辰戦争
|
4
|
戊辰戦争
|
81
|
宝暦8年(1758)に美濃国郡上藩に新たに丹生郡10ヶ村が与えられ、鯖江市域の田村他6ヶ村が郡上藩領になりました。さて、郡上藩の陣屋は旧武生のどこの村に置かれたでしょうか。
|
旧武生の家久村
|
旧武生の広瀬村
|
旧武生の千福村
|
旧武生の住吉村
|
3
|
旧武生の千福村
|
82
|
明和元年(1764)に三河国西尾藩が成立し、上石田村他7ヶ村が幕府領から西尾藩領となりました。さて、管理を担当していたのは次のどの陣屋でしょうか。
|
旧朝日の天王陣屋
|
旧朝日の西田中陣屋
|
旧朝日の気比庄陣屋
|
旧朝日の石田陣屋
|
1
|
旧朝日の天王陣屋
|
83
|
貞享3年(1686)の「貞享の半知」により、福井藩領の 22万 5千石が幕府に召し上げられましたが、鯖江市域の 87ヶ村のうちで幕府領となった数は次のどれが正しいでしょうか。
|
12ヶ村
|
24ヶ村
|
41ヶ村
|
56ヶ村
|
4
|
56ヶ村
|
84
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当初、越前国内の幕府領の統治は、勝山にあった代官陣屋が担当していましたが、元禄4年(1691)に勝山藩が成立すると、代官陣屋は鯖江の西鯖江ともう一つどこに移転したのでしょうか。
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石田
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神明
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鳥羽
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下河端
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1
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石田
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享保5年(1720)に鯖江藩が成立したので越前国内の幕府領の統治は武生の本保陣屋に移転。その後、明和2年(1765)には飛騨郡代(高山在住)が兼任しました。しかし、幕府領があまりにも広大になったことで、代官による年貢徴収率が悪化したため、一部の統治を福井藩に委託したことを何といったでしょうか。
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福井藩預所
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代官預所
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福井道の預所
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福井年貢預所
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1
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福井藩預所
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元禄5年(1692)に大坂城代であった土岐頼殷に今立郡内の 2万 5千石が与えられ、莇生田、片山、清水、河内、沢、砂畑(新)の6ヶ村が幕府領から土岐氏領となりました。これら所領の管理を担当したのは、次のどの陣屋か。
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旧今立の野岡
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旧今立の粟田部
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旧今立の別印
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旧今立の赤坂
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1
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旧今立の野岡
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江戸時代の経済基盤は農業でしたが、農民は全人口の内約何パーセントを占めていましたか。
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約60%
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約70%
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約80%
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約90%
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3
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約80%
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江戸時代の紛争の一つに水論があります。水論とは、農業用水の利用をめぐる村落間の論争のことです。さて、鯖江で記録に残っている水論は貞享元年(1684)から慶応2年(1866)のおよそ 180年の間に何回あったでしょうか。
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51回
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56回
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61回
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66回
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2
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56回
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水論が村同士で解決できない場合は、藩主の裁定を仰ぐことになりますが、藩主でも解決できない場合はどこの裁定を仰ぐことになりますか。
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御膳所組頭
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江戸の参府評定所
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江戸の幕府評定所
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江戸の大老評定所
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3
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江戸の幕府評定所
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江戸時代には道路(街道)の整備が著しく進展しましたが、距離の目安となるように、約4km毎に造られた土盛りを何といいますか。
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明け六つ塚
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子の刻塚
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一町塚
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一里塚
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4
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一里塚
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江戸時代、庶民の間では「旅行」が盛んとなり、他地域との交流が本格化するようになりました。さて、当時の一般的な旅人は一日で何kmくらい歩いたでしょうか。
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約20km
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約30km
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約40km
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約50km
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3
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約40km
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