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1 | 越前漆器は何年の伝統といわれているか。 | 800年 | 1100年 | 1300年 | 1500年 | 4 | 1500年 |
2 | 本町3丁目にあるあめや呉服店の大看板の文字「呉服」を彫ったのは誰。 | 高村光太郎 | 横山大観 | 北大路魯山人 | 間部東斎 | 3 | 北大路魯山人 |
3 | 鯖江市の繊維産業の始まりは何の生産。 | 羽二重 | 人絹 | ベルベット | メリヤス | 1 | 羽二重 |
4 | 鯖江台地南端の独立丘稜上にある王山古墳群の年代について、その組み合わせが正しい説明はどれか。 | 縄文時代から弥生時代 | 縄文時代から古墳時代 | 弥生時代から古墳時代 | 古墳時代から平安時代 | 3 | 弥生時代から古墳時代 |
5 | 重要文化財「旧瓜生家住宅」の建設年代はいつか。 | 慶長年間 | 元禄年間 | 享保年間 | 天保年間 | 2 | 元禄年間 |
6 | 鯖江本山誠照寺御影堂は、県内最大級の木造建築物であるが、江戸期に焼失し、現在のものは再建されたものである。その再建年代はいつか。 | 明治元年 | 明治10年 | 大正10年 | 昭和元年 | 2 | 明治10年 |
7 | 近松門左衛門の作品のうち、越前を舞台としたものはどれ。 | 国姓爺合戦 | 槍の権三重帷子 | 心中天の網島 | 傾城仏の原 | 4 | 傾城仏の原 |
8 | 西山動物園北側の遊歩道沿いの「祈りの道」には、何基の石像が並んでいるか。 | 50基 | 約100基 | 約300基 | 約400基 | 4 | 約400基 |
9 | 西山公園の総面積は、東側と西側をあわせて何ヘクタールか。 | 約13ha | 約56ha | 105ha | 182ha | 2 | 約56ha |
10 | 上河内町の「ラポーゼかわだ」は、日本でも数少ない混合泉であるが、泉質の組み合わせとして、正しいものはどれか。 | 重曹泉と芒硝泉 | 重曹泉と硫黄泉 | 芒硝泉と硫黄泉 | 重曹泉と鉄泉 | 1 | 重曹泉と芒硝泉 |
11 | 鯖江藩第7代藩主間部詮勝は、歴代藩主で最も長く藩主を務めているが、その期間は何年間か。 | 55年間 | 38年間 | 24年間 | 49年間 | 4 | 49年間 |
12 | 昭和4年に酒井伊四郎が創設した酒伊合同紡績㈱は、どこと資本提携し昭和9年に酒伊織物㈱となったか。 | 日商岩井 | 住友商事 | 三井物産 | 三菱商事 | 3 | 三井物産 |
13 | 苦学して東大医科学を卒業した古川田溝が、学費を得るために熱中したことは。 | 野菜作り | 標本作り | 薬草作り | 花作り | 2 | 標本作り |
14 | 高島善左衛門は、川が氾濫するたびに田畑が石河原と化してしまう様子を見て、村に繊維産業を導入することを考えたが、その川の名前は。 | 浅水川 | 九頭竜川 | 日野川 | 石田川 | 3 | 日野川 |
15 | 鯖江出身の偉大な医学者、政治家として記憶に残る小泉親彦が、学生時代に答案を全て外国語で書いて、教官から生意気と見られ、席次が2位に下がったという逸話が残されているが、その時に使った外国語は。 | 英語 | ドイツ語 | フランス語 | オランダ語 | 2 | ドイツ語 |
16 | 萬慶寺の開祖で、赤穂浪士が討ち入りの後、立ち寄った江戸の泉岳寺で彼らを受け入れる決断を進言したという逸話をもつ僧侶は。 | 瑩山 | 承天 | 道元 | 義介 | 2 | 承天 |
17 | 19歳で鯖江藩医土屋家を継いだ土屋公章が、普及に尽力したものは。 | 漢方薬 | レントゲン | 血液検査 | 種痘 | 4 | 種痘 |
18 | 製漆業に転業し一代で財を成した杉本五助は、3代目のときに何県の山に赴いて漆掻きの仕事をしたか。 | 長野県 | 富山県 | 石川県 | 山形県 | 4 | 山形県 |
19 | 父が鯖江藩の細工見習いとして奉仕していた早川尚古斎は、近世の名匠と称えられたが、大阪に住んでいたことから何といわれていたか。 | 浪華の籠師 | 浪華の仕事師 | 浪華の業師 | 浪華の技術師 | 1 | 浪華の籠師 |
20 | 福井藩第2代藩主松平忠直が幕府の命により配流された国は、現在の何県か。 | 福岡県 | 佐賀県 | 熊本県 | 大分県 | 4 | 大分県 |
21 | 鯖江藩時代の面影を残す数少ない建造物のひとつに、鯖江藩の家老職にあった家柄の長屋門(旭町1丁目)がある。この家は何家か。 | 田代家 | 植田家 | 波多野家 | 酒井家 | 2 | 植田家 |
22 | 国登録有形文化財、あめや呉服店店舗(本町3丁目)の創業100年を記念して作られた欅材の大看板は誰が作ったものか。 | 北大路魯山人 | 横山大観 | 梅原龍三郎 | 小林秀雄 | 1 | 北大路魯山人 |
23 | 県指定文化財の舟津神社赤鳥居の形式は。 | 明神鳥居 | 神明鳥居 | 山王鳥居 | 春日鳥居 | 1 | 明神鳥居 |
24 | 市指定文化財、石造七重塔(水落町4丁目)は、何の岩石で作られた層塔か。 | 花崗岩 | 玄武岩 | 安山岩 | 石灰岩 | 3 | 安山岩 |
25 | 片上神社(南井町)に所蔵されていて、市指定文化財に指定されている三尊は、阿弥陀如来と聖観音と何。 | 千手観音 | 大日菩薩 | 十一面観音菩薩 | 弥勒菩薩 | 3 | 十一面観音菩薩 |
26 | 仰明寺(和田町)の市指定文化財、絹本著色教如上人像に描かれている教如は、浄土真宗何派の初代か。 | 大谷派 | 本願寺派 | 三門徒派 | 高田派 | 1 | 大谷派 |
27 | 鯖江藩校の「稽古所」が「進徳館」と改称されたときの藩主は誰。 | 間部詮熈 | 間部詮実 | 間部詮房 | 間部詮勝 | 4 | 間部詮勝 |
28 | 市指定文化財の羅漢樹がある玉村弥左衛門家は江戸時代において中戸口組の大庄屋を務めた旧家であるが、その旧家は、古来、村中では何とよばれていたか。 | おもや | なぬし | やもり | ばんとう | 1 | おもや |
29 | 「すりばち灸」で有名な中道院(長泉町2丁目)の本尊は。 | 木造阿弥陀如来坐像 | 木造地蔵菩薩坐像 | 木造大日如来坐像 | 木造阿弥陀如来立像 | 4 | 木造阿弥陀如来立像 |
30 | 市指定文化財、石部神社の算額の奉納者は、磯部村で和算を学んだ人物と考えられているが、その人物とは。 | 関孝和 | 金粕久美 | 金粕保美 | 境口惣助 | 4 | 境口惣助 |
31 | 鯖江藩の成立は、すでに藩領域をもつ越前の諸藩に割り込む形で領国支配が行われ、領域は3郡にまたがった。その3郡とは、今立・丹生とどこ。 | 府中 | 松岡 | 大野 | 池田 | 3 | 大野 |
32 | 鯖江藩初代藩主詮言の兄詮房は、将軍2代に仕えた御用人であるが、その将軍は、徳川家宣と誰。 | 徳川綱吉 | 徳川家重 | 徳川家茂 | 徳川家継 | 4 | 徳川家継 |
33 | 近松門左衛門が貞享元年(1684)、大坂に竹本座を創設した義太夫を祝って書いた作品は何。 | 出世景清 | 天神記 | 吉野忠信 | 碁盤太平記 | 1 | 出世景清 |
34 | 初代鯖江藩主、間部詮言が入封した時の西鯖江村の村高は。 | 800石 | 3000石 | 10,000石 | 50,000石 | 1 | 800石 |
35 | 領地が入り組んでいる鯖江藩領の支配には藩領を6つの組に分けたが、それぞれの組におかれたものは何。 | 藩邸 | 大庄屋 | 組頭 | 名主 | 2 | 大庄屋 |
36 | 鯖江藩初代藩主間部詮言が亡くなった地はどこ。 | 村上 | 江戸 | 大坂 | 鯖江 | 2 | 江戸 |
37 | 寛保2年(1742)関東を襲った大洪水の際、幕命により鯖江藩はある河川の修復工事を命ぜられたが、その河川の名前は何。 | 荒川 | 新利根川 | 隅田川 | 神田川 | 2 | 新利根川 |
38 | 鯖江藩第2代間部詮方の鯖江入封後苦労してようやく整った陣屋町に、再び、新しいまちづくりが課題となったが、その原因は何。 | 合戦 | 大地震 | 大洪水 | 大火 | 4 | 大火 |
39 | 鯖江藩第5代藩主詮熈の時代には、財政的に一層行き詰るが、その原因は凶作と何。 | 領民の反乱 | 放漫財政 | 参勤交代 | 年貢の不払い | 3 | 参勤交代 |
40 | 近松門左衛門の世話物のジャンルを確立した最初の作品は。 | 曾根崎心中 | 冥途の飛脚 | 心中天の網島 | 女殺油地獄 | 1 | 曾根崎心中 |
41 | 明和元年(1764)に三河国西尾藩が成立し、上石田村他7ヶ村が幕府領から西尾藩領となりました。さて、管理を担当していたのは次のどの陣屋でしょうか。 | 旧朝日の天王陣屋 | 旧朝日の西田中陣屋 | 旧朝日の気比庄陣屋④ | 旧朝日の石田陣屋 | 1 | 旧朝日の天王陣屋 |
42 | 当初、越前国内の幕府領の統治は、勝山にあった代官陣屋が担当していましたが、元禄4年(1691)に勝山藩が成立すると、代官陣屋は鯖江の西鯖江ともう一つどこに移転したのでしょうか。 | 石田 | 神明 | 鳥羽 | 下河端 | 1 | 石田 |
43 | 元禄5年(1692)に大坂城代であった土岐頼殷に今立郡内の2万5千石が与えられ、市域では莇生田、片山、清水、河内、沢、砂畑(新)の6ヶ村が幕府領から土岐氏領となりました。これら所領の管理を担当したのは、次のどの陣屋でしょうか。 | 旧今立の野岡 | 旧今立の粟田部 | 旧今立の別印 | 旧今立の赤坂 | 1 | 旧今立の野岡 |
44 | 江戸時代の紛争の一つに水論があります。水論とは、農業用水の利用をめぐる村落間の論争のことです。さて、鯖江で記録に残っている水論は貞享元年(1684)から慶応2年(1866)のおよそ180年の間に何回あったでしょうか。 | 51回 | 56回 | 61回 | 66回 | 2 | 56回 |
45 | 江戸時代には道路(街道)の整備が著しく進展しましたが、距離の目安となるように、約4km毎に造られた土盛りを何といいますか。 | 明け六つ塚 | 子の刻塚 | 1町塚 | 一里塚 | 4 | 一里塚 |
46 | 北陸道に置かれた宿場(宿駅)のうち、鯖江市域にあったのは水落宿と、もう一つは何宿でしょうか。 | 上鯖江宿 | 舟津宿 | 鳥羽中宿 | 深江宿 | 1 | 上鯖江宿 |
47 | 宿場(宿駅)は人馬の手配や荷物を運ぶ「人足勤め」が課せられる代わりに、年貢が軽減されるなどの優遇措置がありました。さて、その宿場(宿駅)の具体的な施設として該当しないものは次のうちのどれでしょうか。 | 旅籠 | 本屋 | 茶屋 | 本陣 | 2 | 本屋 |
48 | 江戸時代、日野川の白鬼女(舟津町5丁目付近)には、三国湊を往復する舟の渡し場がありましたが、水主人(乗組員)は約何人常駐していましたか。 | 10人 | 20人 | 30人 | 40人 | 4 | 40人 |
49 | 江戸時代、三国湊を往復する舟の大きさは全長10m弱で、米・肥物・塩・雑穀・薪などを積荷としていました。一艘の舟には荷主と船頭と水主人が乗船していましたが、さて、合計およそ何人乗船していましたか。 | 6人 | 3人 | 4人 | 5人 | 3 | 4人 |
50 | 幕府政治を担った間部詮房は、「生類憐れみの令の廃止」、「武家諸法度の改定」、「貨幣制の改定」などを断行しました。さて、詮房とともにこのような政治改革を行なった人物は次のだれですか。 | 松平信綱 | 松平定信 | 田沼意次 | 新井白石 | 4 | 新井白石 |
51 | 吉江藩唯一の藩主、松平昌親の養育係の中に杉森信義という武士がいて、その子は後に「近松門左衛門」として活躍しますが、実名は何といいましたか。 | 杉森信盛 | 杉森信守 | 杉森暢盛 | 杉森伸盛 | 1 | 杉森信盛 |
52 | 45歳の時、鯖江藩主に召しかかえられた、芥川思堂が亡くなった年はいつでしたか。 | 文化4年(1807) | 文化8年(1811) | 文政元年(1818) | 文政8年(1825) | 1 | 文化4年(1807) |
53 | 藩の立て直し対策として、家臣団の人数を大幅に減らし、「御用諸式目」を編成し、それをもとに「御家御条目」など藩の政治のよりどころとなる法律をつくった福井藩主はだれでしょうか。 | 松平吉品 | 松平昌勝 | 松平綱昌 | 松平昌道 | 1 | 松平吉品 |
54 | 福井藩主松平綱昌は、やがてある事件から、幕府から蟄居を命じられました。その事件の名前は何といったのでしょうか。 | 「越前世譜一」 | 「貞享の大法」 | 「藩政の大法」 | 「御用所」 | 2 | 「貞享の大法」 |
55 | 近松門左衛門の40代は歌舞伎作者の時代でした。都万太夫座の座長、坂田藤十郎の座付き作者となり、書き上げた作品の数は次のいくつでしょうか。 | 約30ばかり | 約40ばかり | 約50ばかり | 約20ばかり | 1 | 約30ばかり |
56 | 詮勝が領民と楽しむために、自らの御達山をひらき造った一大庭園の名前は何というのでしょうか。 | 西山渓 | 教養渓 | 嚮陽渓 | 江戸渓 | 3 | 嚮陽渓 |
57 | 近松門左衛門が辞世の文を書き残した時、自分の姿を書かせた絵描きである息子の名前は次のうちのどれでしょうか。 | 多門 | 多問 | 多左衛門 | 多右衛門 | 1 | 多門 |
58 | 江戸時代、学問の中心は朱子学に代表される儒学でした。鯖江藩でも朱子学を中心とした教育が行われ、その元祖、芥川思堂が鯖江藩主に召しかかえられたが、その時の藩主はだれだったのでしょうか。 | 間部詮允 | 間部詮勝 | 間部詮熙 | 間部秋房 | 3 | 間部詮熙 |
59 | 吉江藩主松平昌親の祖父で初代福井藩主の名前は何といいましたか。 | 徳川康秀 | 徳川秀康 | 結城福松 | 結城秀康 | 4 | 結城秀康 |
60 | 鯖江藩6代藩主詮允により藩校「進徳館」が創立されたが、藩校設立に貢献した芥川思堂の次男の名前は何というのでしょうか。 | 芥川帰山 | 芥川玉潭 | 芥川丹邱 | 芥川南郭 | 2 | 芥川玉潭 |
61 | 真保由斎の本名は何といったでしょうか。 | 真保太郎 | 真保由太郎 | 真保由太 | 真保由男 | 2 | 真保由太郎 |
62 | 兄の6代藩主詮允が急死するとわずか11歳で7代藩主となった詮勝は領内の巡見を行った。その様子を同行した玉潭がまとめたものを何といいましたか。 | 「勅使御馳走」 | 「間部家譜」 | 「越前鯖江市」 | 「政午紀行」 | 4 | 「政午紀行」 |
63 | 芥川思堂から学び、後に江戸に出て林大学頭逑斎のもとで学び、惜陰堂の取締役となり幕府の家臣たちの教育に携わった間部詮勝の名づけ親は次のだれでしょうか。 | 大郷信斎 | 大郷浩斎 | 大郷学橋 | 芥川帰山 | 1 | 大郷信斎 |
64 | 昭和43年に、真保由斎が厚生労働大臣に表彰された卓越技能者のことを何といいますか。 | 芸術資格士 | 芸術保存資格作家 | 近代の名工 | 現代の名工 | 4 | 現代の名工 |
65 | 近松門左衛門が歌舞伎作者から浄瑠璃作者となり大ヒット作品となった名作「曾根崎心中」を書いたのは何歳頃でしょうか。 | 60歳のころ | 40歳のころ | 30歳のころ | 50歳のころ | 4 | 50歳のころ |
66 | 間部家の菩提寺である本堂には、書道や絵画に親しんだ詮勝が書いた天井いっぱいの「風神・雷神・竜神」の絵が残されていますが、さて、その菩提寺の名前は何といいますか。 | 西光寺 | 萬慶寺 | 誠照寺 | 仰明寺 | 2 | 萬慶寺 |
67 | 「自由民権」の運動家として活躍した人物、永田定右衛門の出身地はどこでしょうか。 | 西鯖江村下深江(現在の鯖江市深江町) | 丹生郡市下氏家村(現在の鯖江市下氏家町) | 坂井郡鶉村波寄(現在の福井市波寄町) | 西鯖江村屋形(現在の鯖江市屋形町) | 1 | 西鯖江村下深江(現在の鯖江市深江町) |
68 | 明治元年3月5日、今立郡定次村で齋藤久兵衛家の子として生まれ、新しく養子に入った家の名を受け継ぎ、教員を経て、その後神明村の村長になり、村の発展につくした人はだれでしょうか。 | 野尻勉郎 | 野尻弥重郎 | 齊藤勉 | 永田定右衛門 | 2 | 野尻弥重郎 |
69 | 矢代操が青年に法律を教える学校をつくろうと、「明法寮」時代の友人2人と旧島原藩(長崎県)の上屋敷跡(現在の東京都千代田区有楽町)に明治法律学校を開校した年は次のうちどれでしょうか。 | 明治14年 | 明治13年 | 明治15年 | 明治16年 | 1 | 明治14年 |
70 | 矢代操らが開校した明治法律学校を「明治大学」と校名を改めた年は次のうちいつでしょうか。 | 明治36年 | 明治37年 | 明治38年 | 明治39年 | 1 | 明治36年 |
71 | 勤務先の第5高等学校(現在の熊本大学)に天皇陛下が行幸されたとき、長年の研究成果のご説明をする役割を任された、文学博士号受賞者の本名は次のだれでしょうか。 | 岡井祠堂 | 岡井正臣 | 岡井慎吾 | 岡井柿堂 | 3 | 岡井慎吾 |
72 | アメリカ合衆国のウィリアム・エリオット・グリフィスの家に下宿をしながら、今立吐酔が日本の歴史力、福井での見聞が書かれた出版の手伝いをした本の名前は何といいますか。 | 「皇国」 | 「国王」 | 「皇王」 | 「皇人」 | 1 | 「皇国」 |
73 | 山田仙之助が、県下で最初に「人絹糸」製造に変更してから、昭和8年には、大会社となりました。その時の織機と労働者の数はどれが正しいでしょうか。 | 織機4千台と労働者3千人あまり | 織機4千台と労働者4千人あまり | 織機3千台と労働者4千人あまり | 織機3千台と労働者3千人あまり | 1 | 織機4千台と労働者3千人あまり |
74 | 今立吐酔が、福井藩の招きで明新館の教師として着任したウィリアム・エリオット・グリフィスと共に渡米し5年間の留学生活後、取得した学位は何ですか。 | 理学士 | 工学博士 | 哲学博士 | 英文学士 | 1 | 理学士 |
75 | 明治14年に福井県が設置され、最初の県会議員の選挙が行われたが、永田定右衛門が初めて福井県議会議員となったのはいつでしょうか。 | 明治15年3月 | 明治16年4月 | 明治23年7月 | 明治22年1月 | 1 | 明治15年3月 |
76 | 「福井県議会議員」時の働きぶりが評価され、大正9年の衆議院議員総選挙に本県第2区から立候補して当選した人は次のだれでしょうか。 | 野尻弥重郎 | 齊藤勉 | 山田仙之助 | 加藤高明 | 1 | 野尻弥重郎 |
77 | 小学校の教員から博士になり「玉篇の研究」で大きな功績を遺した漢学者は次のだれでしょうか。 | 岡井正臣 | 岡井慎吾 | 野尻弥重郎 | 福田耕 | 2 | 岡井慎吾 |
78 | 「鯖江藩日記」で嘉永5年6月に鯖江藩勘定方の役人、松本伝吾家に男の子が生まれたとあるが、後に矢代操となるこの男子の幼名は何と名付けられたのでしょうか。 | 大美 | 美大 | 美太 | 伝美 | 3 | 美太 |
79 | 禿すみが、東京に行き、勉強がしたいとの願いから両親の留守中に髪を切り「きょうから男になります」と強い決意を示したのは、何歳の時のことでしたか。 | 14歳 | 13歳 | 12歳 | 11歳 | 4 | 11歳 |
80 | また、禿すみが父とともに上京し、入学した学校は次のどれでしょうか。 | 成立学舎女子部 | 同志社女子部 | 中央学院女子部 | 東京女子部 | 1 | 成立学舎女子部 |
81 | 棚池慶助の指導方針「バイオリンの稽古に注いだ努力を勉強や仕事にもつぎ込める人づくり」を目標に、昭和8年5月、東京市(現在の東京都)に設立した組織は何といいますか。 | 「磯のみち会」 | 「みちの磯」 | 「みち草会」 | 「磯跡会」 | 1 | 「磯のみち会」 |
82 | 昭和19年、女子教育に人生のすべてをささげた禿すみが、教育功労者として宮内省(現在の宮内庁)から授与された勲章は何でしたか。 | 緑綬褒章 | 紫綬褒章 | 紺綬褒章 | 藍綬褒章 | 4 | 藍綬褒章 |
83 | 山田仙之助は、父仙太郎と相談し、明治37年に今までの商売から将来の見通しが明るい機屋に代えることにしたが、転職前の家業は何でしたか。 | 油屋 | 酒屋 | 米屋 | 質屋 | 1 | 油屋 |
84 | また、そのころ近くには一軒の機屋もなかったので、山田仙之助は福井に出かけ技術や工場の仕組みを習い機屋をはじめたが、その時の手織機は何台でのスタートでしたか。 | 3台 | 5台 | 10台 | 12台 | 2 | 5台 |
85 | 今立吐酔が、安政2年に今立郡松成村(現在の鯖江市松成町)にある今立家の5男として生まれたお寺の名前は何といいますか。 | 満浄寺 | 成願寺 | 浄願寺 | 満願寺 | 4 | 満願寺 |
86 | 福井県人初の内閣総理大臣、岡田啓介は第何代の総理大臣でしたか。 | 第31代 | 第32代 | 第33代 | 第34代 | 1 | 第31代 |
87 | 2・26事件は陸軍の青年将校らが起こした反乱事件ですが、首相を守ろうとして身代わりとなり射殺されたのは、次のだれでしょうか。 | 福田耕 | 迫水常久 | 松尾伝蔵 | 岡田耕 | 3 | 松尾伝蔵 |
88 | 女性画家が少なかった大正時代に活躍したが、31歳の若さでこの世を去った日本画家の先駆者として高く評価された人は、次のだれでしょうか。 | 窪田しづ | 木村杏園 | 八田高容 | 窪田律 | 1 | 窪田しづ |
89 | また、上記(№88)の女性日本画家の父喜三郎が、「円通庵卜了軒」「東屋」という屋号で営んでいたお店は、次のどれになりますか。 | 和菓子屋 | お茶屋 | 漆器店 | 骨董店 | 4 | 骨董店 |
90 | 真保由斎が河和田小学校に通う頃、近くにあった「沈金徒弟養成所」で実習の指導を受けた沈金師は、次のだれでしたか。 | 和田其水 | 三谷吾一 | 前大峰 | 前史雄 | 1 | 和田其水 |